新潟の歴史を学ぶ

謙信と信玄

新潟に生まれて50年以上の年月が過ぎました。新潟市に事務所がありますので、家庭教師のお世話で面談にお伺いした地域は1番遠いところが糸魚川市です。次に妙高市、魚沼市。(家庭教師が在籍しないエリアは派遣が出来ないため、過去にお世話したエリアでも現在はお世話出来ない地域もあります。詳しくはお問い合わせ下さい。)北は村上市まで、新潟県の主要な道路はほとんど走破してますが、とにかく広い県です。

 

新潟に対する私の思い

新潟にお住まいの方は、新潟県についてどんな印象や感情をお持ちになって暮らされてますか? 私は新潟県の子供たちに対する行政のサービスは学校の環境や、医療費の補助など今ひとつ気に入らないのですが、新潟県はやはり大好きです。

 

家庭教師のお世話にお伺いして面談を差し上げる際に、私はどのエリアへお伺いするにしても経費削減のため一切高速道路を使わないのですが、経費の削減以外の目的にもう1つ、密かに楽しみにしているのが、各に地域へ出掛けた際、その地域の歴史に触れるような場所に立ち寄る事です。

 

大好きな場所は、上越市と長岡市。新潟の歴史はこの2つの町に全て凝縮されているような印象があります。歴史の少ない新潟市に住む私にとって、実はとても羨ましく思う地域が上越市と長岡市です。

 

金沢のように加賀百万石の歴史のような華やかな歴史はありませんが、しくしぶとく大変な時代を生き抜いた、いかにも越後の人間らしく地味ですが凄みのある歴史を上越や長岡には感じます。

 

上越の歴史

上越はやはり戦国時代の武将、上杉謙信ですね。とても格好良くて、人間的に憧れます。謙信公の居城の麓にある林泉寺へ行くと「第一義」の文字が山門に、奥には謙信公のお墓がありますが、「第一義」と言う言葉の基に戦国時代を生き、しかも軍神と呼ばれる程の戦上手で、「義」の戦いを貫いた凄み。

 

ここで謙信公は幼少期に学んだのだなぁと林泉寺を歩くと、厳粛な空気に触れ人間的に謙信公に少しでも近づいてみたい。そんな思いになってしまいます。その後の越後人の生き方を方向付けたのが私には上杉謙信のように思えてなりません。謙信公の教えは、養子の影勝と直江兼続に引き継がれ、関ヶ原の戦いの時には義のため徳川に付かずに会津で東軍の徳川方と戦うことになります。

謙信軍旗

長岡の歴史

謙信公の時代からおよそ300年後、長岡は戊辰戦争で焼け野原になります。戊辰戦争は軍事総督河合継之助の基長岡藩が2000人に満たない藩兵がおよそ倍の官軍と戦った戦いですが、徳川幕府に恩義ある諸藩でも官軍に寝返る中、藩主牧野家は会津の松平家同様忠義に厚く、その藩風から河合継之助けは軍事中立を唱え官軍に組しなかった事から戦いが始まります。

 

この河合継之助と言う人は、江戸の佐久間象山のもとや、備中松山(岡山)で山田方谷に学び、藩の財政を立て直し、藩兵を西洋式に編成したのですが、火縄銃の装備を未だにしていた東国諸藩の中で、日本に三門しかなかった最先端の機関銃を二門も装備していた事に驚かされます。悠久山公園の歴史博物館で長岡の歴史を見る事が出来ますが、この長岡の歴史にも越後人のひたむきな誠実さを感じて胸が熱くなるのですが、私が大手家庭教師協会に対して、小さいながらも家庭教師の協会を続けて来たのは、この河合継之助さんの生き方に習う所が大きくあるのです。

 

そして、明治維新後には、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、焼け野原となった長岡の見舞いにもらった米百俵の売却益を元手に、国漢学校を開校した小林虎三郎から、太平洋戦争の連合艦隊司令長官の山本五十六まで、とことん学んで真直ぐに生きた尊敬出来る人物がたくさん長岡から生まれました。

付箋とノートとペン

 

上杉謙信や河合継之助、小林虎三郎に山本五十六、上杉影勝に直江兼続。何か、新潟、越後人の気質に共通しているものを感じます。一生懸命に学び、もしかすると、逆の立場を取れば天下が取れたかも知れなかったり、負ける可能性の高い戦いにも「義」のための行動を貫いた越後の歴史上の先輩方を知るに付けて、私もそのように生きなくてはと思います。

 

新潟の子供たちは、尊敬出来る人生の手本になるような方々が、たくさんいて、新潟に暮らす事に誇りを持って欲しいと思います。歴史を学べば自分の生き方を見つけ出す事に繋がります。「学ぶ」と言う事は自分を育てる栄養を得る事です。新潟県の様々な道路をそんな事を考えながら車を走らせ、時には、歴史の跡を訪ねつつ各地域の子供たちのお宅へ面談にお伺いしています。

 

 

 

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